書き溜め漂流記

食後すぐ横になるのが好きな人間の毎日。メランコリックと共存しています。

憂鬱の話

ここ数日また気が上手に乗らず

 

鬱期が強まってきた気がする。

 

何か特別あるわけではなくててこういうタイミングはいきなりやってくる。

 

 

そのときによって波があるが、このゾーンに入ったなとある程度わかるようになると切り抜けるまでじっくり耐えるか、とことんまで自分を追い込んでドンっとしんどい時間を作って一気に終わらせるかのどちらかを取る。

 

追い込むのはしんどいがその分短く済むので、その方が気が楽になることもある。

 

 

自分が憂鬱になりやすいのはもう物心がついた頃から。だと思う。

 

 

楽しいことがあっても、その場を素直に楽しめずに何かを常に心配していたり

何かソワソワと落ち着きがなかった。

 

学校生活やお稽古先でもそうで、周りの大人たちはただ恥ずかしがり屋でおとなしい子と捉えていたようだが今思うとそんなもので済まされない。

初めての人がいるところはどこに行くのも怖くて、同い年のこどもが苦手だった。

友達が少ないのは今に始まった事ではなかった。

 

あとは失敗するのがとにかく怖くて学校の実技科目が嫌いだった。

体育があると保健室に逃げ込むくらい。

 

休み時間にみんなが校庭や屋上で遊んでいても、ほとんど教室で本を読んだり、塗り絵をしていた。

 

 

人が怖いとか、何もしたくないとか、そんな決してプラスとは言えない気分が日々ベースなのは慣れたと言えば慣れた。

 

何がきっかけだったかはなんとなくいくつか思いつく。

 

 

 

 

突然だが

 

私は自殺を図ったことがある。

 

 

「死にたい」って何か辛いときとかやらかしたとき、言ったことある人は多いだろう。

 

そんなもんじゃなかった。

 

死にたいという”願望”を通り越して、「死ななくてはいけない」というものだったと思う。

 

 

おかげさまで私は未遂で終わり身体障害や知的障害なども残らず今生きている。

 

 

 

当時、駅のホームに行けば、ものすごいスピードで入ってくる列車を見つめることもあったし、丈夫な手すりを見つければ首吊りがうまくいきそうだとかそんなことばかり考えていた。

 

ここではなぜかそうなったかをとりあえず書かないが、その当時もうとにかく死ななきゃいけないと思った。

 

苦しいを通り越して、自分が生きているかよくわからなくなってしまったから。

 

何を食べても美味しくない、何を見ても感動しない、何に触れても感覚が薄れていってどうしようもないむなしさだけだった。

 

 

何でも自由にできるはずなのに、心に自由がないというか何かに縛られているような気持ち。

 

そんな中で、毎日毎日この言い表せない感情に耐えられなくなって私は気がついたら死のうとしていた。

 

失敗したため、私は今こうやって記事を書いているのだが、その後措置入院という形で、精神病棟に数ヶ月入院させられた。

 

その当時の話はまたどこかでおいおい書いていきたい。

 

簡潔に言うと、地獄だった。

 

そして、治療の一環としてあそこでの生活が意味があったかというと私の場合はなかった。

 

強いて言えば、もう2度と入院したくないので自殺の抑止力になってるという意味では効果があったと思う。

 

 

 

 

そんなこんなで今は環境がガラッと変わり、というか自分で変えてきて、なるべく自分が生きやすいところに身を置いている。

 

100点な生活ではないがそれなりに気に入っている。

 

 

だが今でも本気でどうしようもなく死んでしまいたいときがある。

この世の終わり、鬱を通り越して終末期だ。

でもそれは一時的なものだと時間を経てそう思うようになった。

 

 

かつてのこの経験の話をできる人は現実でいない。

 

知っている人間も何人かいるがタブーとして触れてこないし、私からもまず話すことはない。

 

以前、自分がこの人なら話せると思った人に話をしてみたところ

 

その人との間には深い溝ができた。

 

軽い気持ちじゃなくて真剣に言葉を選んで伝えたつもりだったが、理解されないものとして終わってしまった。

 

 

そうか、本気で死にたい気持ちっておかしいことなのか。

 

ショックだった。

 

今でも死についてはなかなか話すことができないテーマとして私の中にずっと浮かんでいる。

 

 

少なくとも私の周囲には本気で死を選ぼうとした経験のある人間はいなかった。

 

そう考えることすらなかったみたいだ。

 

 

私はたまたま出会ってこなかったが、言えない、言わないだけでたくさんいるはずなのに。

 

なんでこんなに禁忌扱いされるのか、不思議だ。

 

軽い気持ちで「あー死にたい」っていうのはいいのに、本気で死ぬことを考えるのはおかしいとされる。

 

あいつはヤバい、メンヘラだとか異常だとか。

 

頭がおかしいと思われて人が離れていくこともあった。

 

まぁそれはそれでいい、そういう人と縁がなかっただけなので。

人間関係の断捨離にはちょうどいい。

 

私は今でも死というものについて毎日のように考えている。

 

でもそれを実行することはおそらくもうないと思う。

 

 

社会通念上では自殺は”ダメ”だ。

 

だがその理由は絶対的なこれというのがない。

 

パッと思いつく、周りの人が悲しむからという理由では反論の余地がある。

 

 

でも自殺が”良い”とされる理由もまたない。

 

私はこの誰もが納得する自殺が”いい理由”を見つけるまでは死んではいけないと思った。

 

 

なんだよ、感情を失って毎日生きていることがしんどいんじゃないのかよと思われそうだが、この問だけは一生懸命考えたいのだ。

 

 

そうでなければ、なんのために、今日まで悩んで辛い思いをして死ぬことまで失敗して生きてきたかわからなくなってしまう。

 

放棄してしまうことが一番辛いと思った。

 

 

 

私は毎日タバコ吸いたいとか、お昼何食べようとかそんなことも考えているが、こういう話もどこかで生きている中でしたいと考えていた。

 

この生きることや死ぬことを考えるのが自分の軸なので。

 

ずーっと苦しいことばかりじゃない、沢山おもしろおかしいこともあった。

 

そういうものを織り交ぜながら、情緒不安定な毎日を残していけたらいい。

 

 

今はもうある程度生きていくコツや知恵を身につけたので憂鬱とは仲良くやっている。

 

 

 

ということで今日は今から気分を上げるため美味しいコーヒーでも買いに行こうと思います。